「すべてをわが事として」

久しぶりに執筆を担当します、らがーです。

最近、『論語』を読み直していましたら、考えさせられる一節に出会いました。

「子曰く、君子はこれを己に求む。小人はこれを人に求む。」
孔子が言う、立派な人物は何事も自分の責任として、わが身に責任を求めて反省するが、つまらない人物はすべて他人の責任として、人を責め、人に求めるものだ。)‐衛霊公第十五‐(新釈漢文大系『論語』‐明治書院、1982年)

論語』を始めとして、おしなべて古典と呼ばれる作品には、読む度に新しい発見があります。

古典の中に刻まれている真理と、自分自身の中にある真理を求める心とが共鳴する時に、「発見」を感じさせるのだと思います。

とは言え、同じ一節でも、何度読んでも読み過ごす部分、或いは実感として肚に落ちてこない部分があることは良くあることです。

先に挙げた一節などは、私にとってその一例であるかも知れません。

士大夫を以て任じる者にとって、先の一節は余りにアタリマエ過ぎて、スルッと読み飛ばしてしまうのです。


何事にも自分の責任として向き合うことは、本当に大切なことと思います。
人は、「誰か」や「何か」のせいにしたくなる時が、往々にしてあると思います。
そんな時、この一節を思い出したい。


話は変わりますが、幕末長州藩吉田松陰は、幕府によって死罪と決まった時、次のような手紙を家族に宛てて書いています。

「平生の学問浅薄にして至誠天地を感恪すること出来申さず、非常の変に立ち到り申し候。」

志半ばにして、敵とも言うべき幕府からの死罪申渡しに対して、「自分の学問が浅かったからだ」といい、「至誠が足りなかったからだ」という。

僕はこの人のこういうところを読むと、毎回決まって涙が出ます。

誰のせいでもない、自分が足りないのだ、という生き方は、潔く、美しい。


世の中に起こるすべての出来事を、「自分の責任」として感じることは、人として大切なことと思います。
よし、例えそれが青年期の理想主義、思い上がり、世間知らずなどと揶揄されようとも。


もう一つ論語の一節を引きます。

「子曰く、君子は言を以て人を挙げず。人を以て言を廃せず。」

孔子が言う、君子は公平な人柄だから、その言うことが善いからといって、言葉だけで直ちに人を信用したり、挙げ用いることをしない。また、平素悪い人だからといって、その善い言葉まで否定して信じないようなことをしない。)‐衛霊公第十五‐

人は大体が、この言葉の逆を行ってしまうものではないでしょうか。

「あの人は立派なことを言ってるから信用しよう」。
「あの人は嫌いだから何言っても無視しよう」。


大切なことは、その人が何を言っていて、そして何を行ったか、ということ、それだけなのだと思います。

「世の中に起こるすべての出来事を『自分の責任』として感じることは大切だと思う」、と僕が言った時、それは見る人によっては幼稚な理想主義、身の程知らずの思い上がり、不勉強故の世間知らずと感じることと思います。

思いたい人には思わせておけば良いだけの話ですが、僕が最も恐れるのは、この言葉を実践出来ずにいる自分自身の存在です。


行為が言葉に追い付かないことほど恥ずかしいことはありません。
初めから出来ないこと、やるつもりも無いことなら言うべきでは無い、それは言葉に生きる人間の最低限の態度であると思います。

僕が、「世の中に起こるすべての出来事を『自分の責任』として感じることが大切なこと」であると思い、またそう口に出すならば、それに見合う行為に取り組まなければなりません。

今ここでは、「言葉も行為それ自身である」といったような話はしません。
私は第一次的な意味で「行為」という言葉を使っています。


初めに挙げた『論語』の一節に戻ります。

「君子はこれを己に求む」。

胸が熱くなる言葉です。そして、激しく反省させられます。

うまくいかないことを誰かのせいにしたり、或いは人を好き嫌いだけで判断したりすることは、本当に退屈なことです。

僕は何度でも言葉にし、そしてそのように行為したいと思います。

「世の中に起こるすべての出来事を、『自分の責任』として引き受けよう!」と。