環境問題に出会った思い出

環境問題に出会った思い出は、23才の頃に珈琲が好きで好きでたまらなくて、色々な原産国の豆を探しているときでした。珈琲の生産地域は南アメリカインドネシア諸島、アフリカで、その中でもフェアトレードラベルの付いた珈琲の産地について知ったのがきっかけでした。

その珈琲屋さんは、21世紀最初の独立国である東ティモールの豆を扱っていたのですが、現地の経済状況が悪いため適正価格取引の珈琲を扱っているとの事でした。企業なので、CSRの一環ではあったものの、当時はCSRなんぞ日本企業はどこの企業も意識していなかったようで、その時が自分自身の初めて聞いた企業CSRでした。

それまでは、環境悪化が進んでいるとは聞いてたけど実際のところ、紙を節約するとか廃材を使った割り箸を使えとかで森林保護をしようという程度でした。
しかし、珈琲を通して視点がようやく海外に向きだして、こんなにも苦しんでいる人がいる、こんなにも先進国の豊かさが自然を貪り尽くしているんだと知りました。

それから、The Big Issueに出会い(その頃、ロバートデニーロとかディカプリとかキアヌリーヴスやキャメロンディアスなんかが表紙を飾ってた)世界の貧困状態や森林破壊、人身売買や児童労働、水不足や内戦や放射能汚染、企業責任や遺伝子組み換えによる農作物の企業独占問題など覚えているだけでもこれだけですが深く思い出せばきりがありません。

写真などから劣悪な状況を目の当たりにした瞬間、自分は何をしているんだろうと理由もわからず悔しくて涙がでたのを覚えています。その瞬間が、日本の企業社会から目が覚めて地球にいる1人の人間としての感覚を得た瞬間だったと思います。

それから、A Seed Japanに出会い、金の悪循環を正す活動、横浜の寿町で日雇い労働者問題(浮浪者と違うこと)、WTOの負の循環を知り、核燃料再処理問題の政府の無計画さや現地の政治的支配力による金や権力の問題、住民の苦しみと核の恐ろしさ(無味無臭無色であること)、住民選挙で反対派で出馬し当選したのに数日で推進派に寝返った市長問題などを通して色々な人と出会い、そして今に至ります。

環境問題に出会った思い出

今日はお題があったのでした、とめです。
環境問題にはいつ出会ったのでしょう。
私にとっては環境問題とは地球温暖化のことでした。ごみ問題とかには全然興味がありませんでした。小学校で夢の島の見学に行っても、行ったな、という思い出があるだけで…。
でも中学だか高校のときの地球温暖化を初めて知ったときには、こりゃーまずい!と思い、それがとにかく自分の環境問題への初めての意識でした。それから環境問題にもいろいろあるということを知って、人権まで環境問題に入っちゃうのか!と自分の中でも環境問題に線引きしていることを自覚したのでした。
私のこの興味は、原点としては生物への興味から始まっていて、たんぱく質ってすごいなー、細胞ってすごいなー、DNAってすごいなー、という驚きから始まっています。この生物への興味は、どうして自分は生きていられるのか、という哲学的な自覚(!)から始まっていて、自分の手が自分の意思で動かせることに驚くというエミールと同じのような感覚を幼稚園のときに思ったような気がしていますが、いつも中途半端な考えに走ってしまう自分がいやなので、VIVA生物!というところで止めときます。

企業と社会と市民と

とめです。
まずは音楽の話題から。最近はboom boom satellitesがgood♪♪だと思いました。あとMUSEもgood。

企業は資本の増大を追求するのが資本主義の原則、費用対効果が最も大きくなるべきなのだから環境資源は消耗されて当然、企業にとって環境保護をする方が資本増大するようなインセンティブを与えるのが行政の対策、行政の方向性を決定するのは議会、議会は市民から選ばれし議員によって成立、市民のうち声が大きいのは資本の大きい企業。?

と考えていったら巡ってんなーと思いました。
巡ってんだな、何もかも、と思ったらなんか悟りの境地のような気分になってきました。
連鎖しているものに対して変化をもたらすことの難しさも感じるし、巡っているならやっぱり社会は1つだ、よし、職業に貴賎なし!、という感じもするし、職業に貴賎なし!なら人間最終的には人間力だな!どー生きるかってことだ!って感じもするし。
友達は大事にってことか。


大学4年間はたくさんのことを考えたけど、やっぱり「私は環境汚してナンボだと思うから」と言い切れる人とは決定的に自分は違う、と感じる。お金が大事とか経済が大事とか、理論で分かっても、理論どまり、サカダチしてもそういう考え方はできないと思った。人と話すと自分が分かる。相手も「環境守って何ができるんだろう」って感じてると思う。豊かな国に生まれて、他国で汚染や災害で苦しむ人がいるかも(しかもその原因が自国にあることも)というときに、許しておけないと思うか、当然この国もどの国もそうやって這い上がってきたんだしそれが原則で仕方ない、と思うか。どうして自分は許せないと思うのか分からないな。この感情をすっぱり捨てられたら非常に楽だと思うけど、「一枚の写真が国家を動かすこともある」がコピーのフォトジャーナル“DAYS”

DAYS JAPAN (デイズ ジャパン) 2009年 03月号 [雑誌]

DAYS JAPAN (デイズ ジャパン) 2009年 03月号 [雑誌]

http://www.daysjapan.net/とか見てると、居ても立ってもいられなくなる。でもみんな志が違ってやり方も考えも違っても、底辺にある情熱はこの国と世界を良くしたいということだと思う。対立することや分かりあえない寂しさがあるのは仕方ないか。
ホントに寿命が足りない。世界は広くて人生は短い!200年ぐらい生きないと今のペースじゃ何もできないよー。走りたい気持ちもあるのに道が見えない!僕の前に道はない僕のうしろに道はできる高村光太郎!文章がうまくまとまらない!誰か!でもぐちゃぐちゃしてて誰にも読んで欲しくない(笑)!音楽はいいよね!あーでも音楽も分かり合えないことあり。絶対的なものなんて何もない!それでも生きてるいのちって不思議。Mother earthに感謝。やっぱ地球をまもろ。
自分は自分にしかなれないわ。

最後のゼミ、最後のブログ★

オスカーです。今日が最後のブログですね。何か、好き勝って書き込んできましたが、この「書く」とか、フィードバックもらうというのは、日々の自分の考えを整理する上で、凄く役に立ったなぁ、と感じました。個人的にブログを始めようかしら。

さて、今日は学生最後のゼミでした。指導教官による「地域再生」についての考察。岩波の『地域再生の条件』あたりを読むとよくわかるけど、この分野は個別性の強いケーススタディばかりで、理論化や一般化が進んでおりません。そこで「地域再生」を理論的に整理しながら、開発は自然環境などとセットでやらねばならないという結論を、我が師匠はしてました。農学部の地域計画学では、割合にポピュラーな議論ですね。

ゼミの議論は、地方財政をどう捻出するか、福祉国家のあり方はどうするか、あまり手厚い行政サービスを展開すると、逆に市民は国に頼ることにならないか、そもそも過疎や高齢化の深刻な地域は人がいなくなるからそんな呑気なことはいってられないのではないか、と百花繚乱。普段は政策論をやらないので、新鮮な気持ちになりました。

典型的な郊外育ちのオスカーは、この手の議論にはあまり入っていけず、いつももどかしいです。たまに農村に行くと、いろいろ考えるけど、この半年は論文に集中してたからさっぱり。地方分権が地方への負担の押しつけとなり、果ては新自由主義的なミニマム国家論にならないことを祈ります。後は、道州制の展開を見守りながら、自分が将来どんな行政官になれるか、思いを馳せる程度かな。


さて、新自由主義と言えば、今日、図書館で、『アル・カーイダと西欧』(ジョン・グレイ、2003)を読みました。ジョン・グレイは英国の政治学者、思想史家です。反・グローバル自由市場原理主義の論客として有名ですが、初めは論文で少し引用したJ・S・ミルの研究者として知りました。

第2章で、近代主義的な3つのプロジェクトとして、ソビエト共産主義国家社会主義(ナチズム)、イスラム原理主義を挙げています。アルカイーダのようなイスラム過激派もまた、歴史を新しい世界に至る準備段階とみなす進歩主義に立っている点で、近代の所産というところから話を始めます。

面白いのは、第3章で、近代化論者の始祖として、サン・シモンとコントを挙げている点です。サン・シモンと言えば、マルクスの思想的源泉の一人。他方、フランスのコントは、神学的、形而上学的、実証主義的の3段階発展説で有名ですが、実証主義に基づいた、社会学の祖として有名。ところで、このコント、少し変わっていて、晩年は実証主義(数学をモデルに社会科学を全て構成できる)に基づいた、「人類教」という宗教を作りました。教義や礼拝の仕方、司祭の人数まで決めていたから、かなり本格的。そして、そんな教祖による実証主義的な、つまりは合理的な信仰によって、今のグローバル自由市場は支えられているというのがグレイの主張。
簡単に議論をまとめると、だいたい以下のようになります。

→20世紀の学者は、数学(実証主義)を原理に、自然科学・社会学・経済学を構築した。
→物理学者マッハは特に絶大な影響を誇った。しかし、マッハ率いるウィーン学団、ナチズムにより多くはアメリカへ。
→例えば、マネタリスト論者のフリードマンに影響を与えた。
→古典派経済学者にとって、土台は歴史。スミスの議論も、マルクス経済学も。
→しかし、社会科学に実証主義が適用されて以来、この伝統は消え去った
論理実証主義の影響で、経済学は完全に没歴史的学問に。
→同時に、科学が歴史を動かす原動力だとサン・シモンとコントに由来する歴史哲学を受け入れた。
IMF社会工学者たちは、忘れられたカルトの信徒にすぎない。そして、グローバル自由市場経済が最良のシステムだというのは妄想に過ぎない。


似たような議論は『グローバリズムという妄想』でも転回されていますが、この前の金融危機でいよいよ説得力を持ったようです。スローガンは、普遍主義から多元主義へ。

近代化がある一つのパターンとして、全世界に当てはまると考えるのは止めなさいという、脱米国中心主義。この主張はよくあるものだけど、実証主義に基づく「人類教」(世俗化されたヒューマニズム)の祖コントから思想史的に、現代のグローバル化の状況を説明するとは、卓越した論理展開でした。まぁ、結局ぼくらは、あらゆるイデオロギーや歴史法則からは自由になれない。謙虚に、慎ましく、お互いを認め合って生きていくしかないということでしょうか。

第4章以降も読むのが楽しみです。他の自由主義に関する著作も今日大量にコピーしたので、受験勉強の合間に読みたいと思います。

というわけで、論文の要旨も提出したので、後は5、6月の試験に向けて猛勉強です。2月中に形だけでもインプットを終わらせて、3月からはアウトプットと反復!皆様も有意義な年度末をお過ごしくださいませ♪


 バッハの平均律クラヴィーア曲集を聴きながら

ヤングリバンドでやりたい!

どらみいです

たまには音楽ーな話しちゃいます★


温室で歌ってて思ったんですが


自分、宇多田ヒカルは難しかった!笑。汗。


やっぱ、YUKIとかジュディマリとかクラムボンとかcharaとかチャットモンチーとかそういうのならまだいけると思う…!


で、クラムボンの“柏手”っていう曲が大好きなんですけど!

てかこれ結婚式にも良い曲じゃん〜!と思い

密かに、リベンジ妄想

ちょー楽しいぞこの曲♪


しかし!!クラムボン!!
メインピアノじゃん!!

ピアノ誰やる〜??

弾き語りーは
ちょーかっこいいけど
また残念な結果になるのでー

ピアノ募集ー♪

ということで
ブログ終わりますm(_ _)m

YouTubeは携帯からだと載せられないのかな?

柏手♪暇だったら聞いてみてください♪

我が心の旅路

こんばんは。寒い日が続くけれど、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。こちらは、少し風邪を引いてしまった(>_<)

おかげで、修論発表会の予行の準備が少々遅れてしまい、今日は一日中バタバタしてました。論文の終章部分で迫力がなくなったねと、指導教官から指摘を受けたので、この3日間で少し手直しをしたのだけど、何だか結論があいまいになり、普遍主義・対・多元主義という哲学上の論争の藪のなかに飛び込む事態に…。発表では、理解の深まったところに絞って、終章は課題を述べるに留めようかな。

今日の発表は完全に消化不良という感じ…。まぁ、多元主義の論客(法哲学者ウォルツァー、ポストモダニストのリオタール、宗教哲学者のジョン・ヒック)あたりの存在を知れたし、プラトン、カント以来の普遍主義的なアプローチの努力もかなり理解できるようになったから、それで潔く善しとしますか。

さて、先週のブログでちょっと法律のことを書いたら、団藤重光さんという刑法学者の対話による自伝『わが心の旅路』という本を紹介してもらったので、早速読んでます。団藤さんは山口生まれの、岡山育ち。儒学者の熊沢蕃山の話がちらほら出てきたけど、こういう名士が故郷にいるというのは何か羨ましい。町田じゃ、ちょっと聴かないもの。遠藤周作が通っていた塾の近くに住んでいたくらい。

青年期を、「即自」(アン・ジッヒ)の時代、「対自」(フェア・ジッヒ)の時代、と区分して振り返るあたりが、ドイツ哲学が日本の法学界に絶大な影響を与えたことを物語ってますね。憲法の先生が「天皇機関説」で有名な美濃部達吉。団藤さんはその後の世代、戦前から戦後への激動期を支えた世代ということになりましょう。また、来週もブログに書こうかな。

それにしても、この自伝というものがあるとすごく助かる。『ミル自伝』があって、J・S・ミルが凄く身近な存在になったけど、カントは永遠に、よくわからずに終わるのだと思う。ある人物を、様々な人々の言説で理解しようとすると、結局、見たこともあったこともない人間に対する解釈や論争に頼らざるを得ず、何か、重大な誤謬を犯しているのではないかと、不安になる。固定観念や偏屈な理解に、俺の頭も汚染されてないかなぁ。わかったような顔をして、人を批判することがありませんように…。


あぁ、玉川学園前についた。電車の広告に、今日も勝間和代の顔がある。チェンジメーカー、講談社より絶賛発売中。カツマーもきっと真面目な素敵な人々に違いない(笑)

寒い寒い寒い。

こんばんは、オスカーです☆☆

皆様、いかがお過ごしでしょうか。論文やその発表会に勤しんでいる人もいれば、せっせとテスト勉強している人もいれば、冬休みを楽しんでいる人もいるかもしれないですね。

こちらは、今日、オリンピックセンターへ、国家?種の説明会に言ってきました。1年前に行けよ、と自分に言いたい感じですが、まぁ、人生色々。区分は人間科学?に決めました。これ以外は、受かる見込みがなさそうです。この区分からは、法務省文部科学省にたくさんいくようです。法務省の場合は、犯罪者の社会復帰に関わるシステムを築くのが主な仕事。

国家?種って、何か、どんな集団なんだろうと思ってたけど、やはり、いい人が多かったです。平成24年度から、国家?・?種の区分がなくなることを考えると、大学の前期、後期くらいの違いしかなくなっているのかもしれない。もちろん、昇進のスピードは凄く違うのだけれど。

さて、5月2日の試験をいかに突破するか。教養は何とかなるとして、専門科目の教育学、社会福祉総論、社会学が蓋を空けてみないと何ともわからないし、過去問が届くのが情報公開の関係で、後3週間はかかるから、それまでは、概説書でも図書館で読んでいようかな。明らかに準備不足だけど、法学や経済学に比べれば、何とか独学できそうです。

何か、区分によっては、国家?種よりも、国家?種の方が、試験自体は突破しやすいということに気づいたこの頃…。

やはり、情報収集能力は大切ですね。

他方、地方公務員も考えているから、憲法民法行政法は一通りやるつもりですが、これがしんどい…。特に民法。法律行為:内心的効果意志の表示、準・法律行為:意志の通知、催告、観念の通知、代理権授与、債権の譲渡の通知…。ようやく、総則が身について、これから物権、担保物権。まだ、債権総論・各論、親族・相続が待っている…。ラガーはこの辺のことを、3時間でも、4時間でも、語っていられるのかしら(笑)
民法第94条類推適用について、論ぜよ、という具合に♪


話変わりますが、憲法を勉強しながら、憲法の偉大さを改めて認識しています。公共の福祉とか、外国人の権利とか、もちろん限界はあるけれど、個人の尊厳の達成 → そのための自由主義 → そのための民主主義、という骨格に、美しい枝葉が散らされていて、本当に感心しまくりです。ヤングリでも、環境安全保障と、憲法9条を絡めたりしたけれど、あの頃は憲法の全体像が全く掴めていませんでした。

まぁ、この憲法は一生かけて、その意義を理解して、それを世代で繋いでいく、遺産なんでしょうね。遺産の価値は往々にして、すぐにはわからないものですから。

後は、経済学はやっぱり面白い。ようやくマクロは、ISーLM分析終了。後、半分強。ミクロは、企業理論、消費者理論終了。代替効果と所得効果とか、無差別曲線、予算制約線の概念がようやく掴めてきました。倫理学をかじった立場からすると、ミクロ全般に使用される「効用」という概念が、イギリス経験主義の功利主義の文脈とどれくらい関係があるかを凄く探求したくなるのだけど、まぁ、その辺はまた暇なときにやろうかな。

150年前に、ミルとトクヴィルは、一体どんな会話を交わしていたのだろうか。自由と平等の両立の難しさについて、民主主義の持つ両義性について、本当のところは何を考えてたのだろうか。


そんな問いを頭に置きつつ、今はひたすら暗記、暗記…。