津本先生の思い出

こんにちは、らがーです。今年は暖冬だそうで、僕が暮らす仙台も例年ならばもう雪が舞っているのですが今年はかすかな初雪を見ただけで、ちっとも冬らしくありません。
コペンハーゲンでの会議が成功裡に終わることを、ただただ願うばかりです。

さて、今日は僕の学生時代の恩師たる、津本信博先生の話をします。

「恩師」、と書きましたが先生は僕の担当教授ではなく、僕は必修科目の大教室で授業を受けたことがあるのみで、この点、本当のお弟子さんたちからすれば「何を言ってるの」と叱られそうなところですが、それでも僕にとっては、津本先生は「恩師」という言葉でしか表せない方です。

先生を初めて知ったのは、僕が大学に入学した年です。早いもので、もう10年近く前になります。

先生はその頃、教育学部の学部長をされていて、入学式で挨拶をされていました。

その後しばらくの間、僕は先生の思い出がありません。それは僕が学校に行って無かったからです。

僕は自分の通う教育学部の国語国文科というところにどうにも馴染めず、サボってばかりいました。丁度政治活動や環境運動にも力が入り始めていた頃でしたので、「文学なんて眠たいこと、男がやってられるか!」と思っていました。

しかし、時が経つにつれて、単位を取らなければ卒業は出来ないという当たり前のことに気付き始め、また文学が面白くなってきたため、学校に戻るようになりました。

確か僕が五年生の頃です。一年生の必修科目を取ってなかった僕は、改めて一年生の大教室に通い始めました。
もうその頃になると、同級生も卒業してますので友達もなく(まぁ元々同級生にも友達はいませんでしたが)、僕は大教室の一番前に座って授業を受けていました。

その時受けた授業の一つに、津本先生の授業がありました。

先生は日本の古典文学がご専門ですが、授業は文学の話が二割ばかりで、あとの八割は大学や学生は如何にあるべきかなどを話すことが多かったものです。

先生はよく学生を指名されるのですが、ある日、二割の方の文学の話をしていた時、一番前に座っている僕が当てられました。

その時、先生は僕に対して「失礼ですが、あなた一年生ですか?」とお聞きになりました。僕は、「いえ、違います」と答えたところ先生は破顔一笑、教室中に向かって「嬉しいじゃないですか〜!ねぇ、こうやって単位を落とした後も一番前で聞いてくれる、嬉しいじゃないですか〜!」と語りました。

それが僕が先生と初めて交わした「会話」でした。

それからしばらく経った頃、僕は授業の後に質問があって先生のところに行きました。質問が終わって帰ろうとしたところで、ふと先生に呼び止められました。
「ところで、あなたはどうして単位を落とされたんですか?」
僕は気が進まなかったのですが、「環境運動などに没頭してたので授業に出てませんでした」と答えたのです。

僕が何故気が進まなかったのかと言うと、概して文学を専門にされてる先生方は「運動」や「肉体言語」を伴う行動を軽視されていることが多いように感じていたからです。
僕は国文科に通っていながら運動に没頭してる自分に後ろ暗い気持ちもありましたので、話したくなかったのです。

しかし、そんな僕の気持ちをよそに、先生は目を輝かして仰ったのです。
「へー!凄いじゃないですか!国文科の学生で環境運動をやってるんですか!素晴らしいじゃないですか〜!」

僕はその時何と言葉を返したか覚えてないのですが、とにかく、胸がジンと嬉しさで満たされたことだけはよく覚えているのです。

誰かに褒められたくて運動をやる訳では決してありませんし、誰かにけなされて運動を止める訳でも、もちろんありません。
ただ、分かって欲しい人に分かってもらえる、ということは、幸せなことです。
先生は、学生をとことん愛される方でした。学生の想いや情熱を全面的に支持し、その心を高く上げて下さる方でした。

よく授業中、中途退学する学生について「どうして一言相談してくれないんですか?!相談してくれたら何とかしたのに!」と、悔しそうに語っていました。

ある有名女優が僕の学年の二つ上にいたのですが、彼女が五年目に退学すると決まった日、先生が寂しそうにしょんぼり歩いていたという話を、後日友人から聞きました。
先生は、何としても卒業させてあげたかったのだと思います。

それから時が経ち2006年、ヤングリが動き始めていた頃のことです。
ある用事のため学部の研究室へ行った帰り掛け、たまたま津本先生に会いました。

その頃には僕は先生の授業を終えてましたし、先生とは親しくお話したことも無かったので、僕は「こんにちは」と挨拶して帰ろうとしたところ、先生は「あらっ」という顔をされて、僕を呼び止められました。
「たしか、宍戸さん(らがー)じゃなかったですか?環境問題をやってらっしゃる」

僕は本当に驚きました。
先生とは一度、授業の後に話をしただけ、しかも随分時も経っていたのに名前を覚えて下さっていた、しかも運動をやってることまで。

「どうですか?環境の活動は頑張ってらっしゃいますか?」

僕は、「はい、頑張ってます」と答えました。

先生は、「そうですか、ぜひ頑張って下さいね。環境問題は今本当に大事な問題ですからね」と仰い、そこで挨拶をして別れました。
ヤングリはその頃五里霧中の中にあり、僕は日々、迷いの中にありました。
それでも、先生に「頑張って下さいね」と言われた、その嬉しさ。あの励まし、温かさ、慈しみにどれだけ救われたか知れません。

それから一年後、僕もようやく卒業出来る日が決まり、大学生活最後の授業へ出席した帰りのことです。

掲示板を見ていたら、先生が亡くなられた、という知らせが貼り出されていました。
あまりに突然のことで、僕は全く信じられませんでした。ただ、先生が最近授業をお休みされているらしい、という話だけは人づてに聞いていました。
だけど、まさかこんなことは嘘だろう、でも大学の掲示板で嘘をつくはずもありません。
僕はそのまま先生の研究室へ走って行きました。

そこは、先生が僕に「ぜひ頑張って下さいね。環境問題は今本当に大事な問題ですからね」と語りかけて下さった、先生の研究室の部屋の前です。

先生の研究室のポストには、花束が一つ差してありました。
僕はその時、先生が本当に亡くなられたのだということを知りました。

そして、先生に手紙を書きました。
先生が声を掛けて下さって嬉しかったということ、先生が授業で話されたことの一言一言が忘れられないということ、そして環境問題の解決へ向かって頑張って行くということを書き、ポストへと入れました。

それから二ヶ月後、先生のお別れ会が開かれました。そこで先生のお弟子さんが先生の思い出を披露されました。

先生はお弟子さんの論文が学会での評価が低かったと知るや、学会に対して激しく怒りを表され、「こんなに評価が低いなんて、まったくおかしいじゃないですか!」と激怒されていたそうで、落ち込んでいたお弟子さんはどれだけ救われた気持ちになったか、と語っていました。

また、先生はよくこう学生に向かって語りかけていたそうです。
「自分が今まで心に温めてきたこと、そして今温めていることを大切にして、自分を信じて歩んで行って下さい」。

僕はそのエピソードを聞きながら、先生らしいなあと思いました。そしてぼろぼろに泣きました。


今も、足取りが遅くなりそうになる時、先生の声が、姿が、目の前に浮かんできて、語りかけてくれます。
「ぜひ頑張って下さいね。環境問題は今本当に大事な問題ですからね」と。

いつかこの世界を去る日がきて、先生と再び会える日が来たときには、真っ先に報告に行くつもりです。

「先生!先生との約束通りに環境問題、解決してきました!」

先生はきっとあの日のように目を輝かしながら破顔一笑され、こう答えてくれると思います。

「へー!凄いじゃないですか!素晴らしいじゃないですかー!」と。

先生へ報告出来るように、今日も頑張ります。