Misfortune makes us strong.

「強い人間になりたいか、弱い人間になりたいか」と尋ねられたら、多くの人は、「強い人間になりたい」と答えるのではないだろうか。

 また、「幸運に恵まれた安楽な人生を生きたいか、つらいことばかりの不運な人生を生きたいか」と訊かれたらどう答えるだろう。これも多くの人は「幸運な人生」を求めるだろう。

 この二つをあわせるとどうなるか。「幸運に恵まれた人生を、強い人間として生きたい」ということになる。しかし、これはちょっとむつかしい。骨が折れる。

 強い人間になるためには、様々な困難に遭遇し、これを乗り越えて行かねばならない。つまり、強い人間は逆境のなかから生まれるわけだ。まさに「艱難辛苦」が「汝を玉」にするわけである。英語で言えば表題のような感じだろうか。

 強い人間になりたい人は、逆境をも愛さなければならない。艱難辛苦よ、我に来いと、むしろ不運や不遇であることを求めるくらいでなければならない。だから強い人間になりたいと思う人は、逆境の時こそ「今こそ自分があこがれていた強い人間になるチャンスだ」と思わなければならない。

 安楽な運命をもとめ、しかも強い人間になりたいというのは、虫のいい話である。安楽な運命を求める人は、クラゲのように背骨をもたず、意志の力もなく、確固たる自己をも持てない弱い人間になるしかない。したがって、私たちが受け入れる望ましい人生の選択はおよそ、つぎのようなものではないだろうか。

(1)不幸な出来事が次々と襲いかかる。しかしそれにもかかわらず、それにうちかって、独立自尊の強い人間になる。そして、自己が磨かれ自らの力で幸せを手にする。

(2)しっかりとした自己はないが、幸運にめぐまれたおかげで、平穏無事に安楽な人生を過ごすことができる。しかし、不幸に見舞われたときには自己解決能力はないためどうすることもできず受け入れて我慢する。


1の場合には相当の苦労の末、自己が磨かれ不幸を乗り越える力を手にし、そして幸せを手にする力も手に入れる。しかし、それ相応の努力と苦労が必要である。

2の場合はどれだけ不幸を受け入れられる人がいるだろうか。いざその時が訪れたとき、常に人は成長の岐路にたたされる。「困難を受け入れて我慢するか、困難に打ち勝つ努力をするか」


 さて、「幸福の門」と「不幸の門」のどちらを選ぼうか。「不幸の門」を選び取るだけの勇気があるだろうか。たとえ惰弱な自己に甘んじても、幸運な人生を生きたいと願うのが人情ではないだろうか。

 私の気持ちを言えば、「強い人間になりたい」と思ったことはあまりない。むしろ、「強さとは何か」とずっと探し求めていた。つい最近気づいたことがある。やさしい人は強いと。

 最近私は「やさしい人間」になりたいと思う。困った人に手を差し伸べるやさしさ、困難に見舞われてつらくても笑顔でいるやさしさ、もちろん叱ってあげるやさしさもだ。
 私に「強さとは何か」と気づかせてくれた人は、凛として優しい人である。「柔よく剛を制す」という言葉があるが、「強さ」を突き抜けたその向こうに、滾々とわき出る「やさしさ」の泉があるのではないかと思っている。